院長ブログ 2026

2026年4月

未来はすでに「隣」に来ている:中島聡氏が描く2034年の肖像    4月12日

技術者であり稀代のビジョナリーでもある中島聡氏の新刊『2034 未来予測ーAIのいる明日』(徳間書店)を読み、私たちは今、人類史上かつてない大きな分岐点に立っているのだと強く実感させられました。著者の中島氏は、かつてマイクロソフトで「Windows 95」や「Internet Explorer」の開発を主導した伝説的なプログラマーであり、その卓越した技術的知見と米国でのベンチャーキャピタル運営を通じた先見性は、他の追随を許さない説得力を持っています。

 本書が興味深いのは、単なる予測データが並ぶ解説書ではなく、2034年の社会を舞台にした「5つの短編小説とその解説」という形式をとっている点です。24時間寄り添うパーソナルAIが個人の秘書やカウンセラーとなり、低価格化された人型ロボットが大量生産されて家事や労働を担う。一方でAIドローンが戦場を支配し、メタバースが物理的な距離を無効化する。そんな、現在進行形のテクノロジーが完全に社会のインフラとして溶け込んだ「10年後」の解像度が、物語を通じて非常に生々しく描き出されています。

 それら数々の未来像の中で、私が最も深く考えさせられたのが「死生観のグレーとリセット」というテーマです。作中では、亡くなった妻の分身として作成されたAIが、夫と普通に日常会話を楽しむ姿が描かれます。そのAIは生前の対話記録をすべて学習しており、夫の将来を案じて「健康に気をつけて」と、生前そのままの口調で語りかけてくるのです。このような存在が日常に組み込まれたとき、果たして「人間が死ぬ」とは一体どういう事態を指すのでしょうか。肉体が滅んでも、その人の思考や感情の癖がデジタル空間に生き続け、こちらを気遣ってくれるのであれば、それは「死んでいる」というよりも、むしろ「生と死の境界がグレーになった」状態といえます。

 この技術の進化は、私たちが守り続けてきた「お墓」の概念さえも根底から変えてしまう可能性を秘めています。墓前に立つと、あたかも故人がそこにいるかのように会話ができる。そうなれば、死はもはや絶対的な別れではなくなり、生きているのとほとんど変わらない継続的な関係性が保たれることになります。メディアアーティストの落合陽一氏がすでに自らのデータを入力して「自分のように話すAI」を構築しているように、誰もがデジタル上の永遠を手に入れる時代はすぐそこまで来ています。

 もちろん、落合氏のような有名人でなければ、時とともにデータは風化し、やがては忘れ去られていくのが現実かもしれません。しかし、たとえ一時的であったとしても、死者が「デジタル・エコー」として生き続ける世界は、残された者の悲しみを癒やす福音となるのか、あるいは次の一歩を阻む執着となるのか。中島氏が提示する2034年の肖像は、私たちが「命」と「記憶」をどう定義し直すべきかという、非常に重く、かつ魅力的な問いを投げかけているのです。

2026年3月

AI時代の未来学を読む――加速主義、プルラリティ、そして人間の遅さ 3月31日

 最近、未来をめぐる言葉がにわかに熱を帯びている。
 加速主義。効果的加速主義、いわゆるe/acc。防御的加速主義、d/acc。プルラリティ。さらにはSFプロトタイピング。どれも、これからの社会をどう動かすか、あるいはどう受け止めるかを考えるためのキーワードである。

 だが、こうした議論を読んでいると、私はいつも一つのことを思う。それは、技術は速くなれるが、人間はそんなに速くはなれない、ということだ。

 加速主義には、たしかに魅力がある。停滞より前進。萎縮より挑戦。技術を抑え込むより、まず進めてみる。そうした姿勢には、ある種の爽快さがある。現実に、医療でも教育でも、技術の進歩によって助けられることは多い。慎重すぎるために、救えるはずの人を救えないこともある。そう考えると、加速そのものを頭ごなしに否定する気にはなれない。

 しかし、問題は別のところにある。技術が速すぎるのである。いや、もっと正確に言えば、技術の速度に、人間の思考と社会の制度が追いつかないのである。

 新しい技術は、あっという間に広がる。けれども、その意味を考える時間は足りない。使い方を学ぶ前に使い始め、影響を見極める前に生活に入り込み、気がつくと、それなしでは回らない社会になっている。法整備は遅い。教育も遅い。倫理の議論はもっと遅い。民主主義の合意形成にいたっては、さらに時間がかかる。

 ここに、現代のいちばん大きなねじれがある。

 ここで思い出すのが、ハラリの『Nexus』である。ハラリは、歴史とは情報ネットワークの歴史でもあると捉え、AI時代の危うさを強く警告している。印刷術や放送技術が社会を変えたように、AIもまた情報空間のルールを書き換える。しかし今回は、単に情報が速く広がるだけではない。AIそのものが、情報を選び、整え、ときに人を誘導する主体になりうる。しかも情報は、真実であるから力を持つのではなく、人を結びつけ、動かすから力を持つ。そこに、ハラリのいちばん深い不安がある。情報ネットワークが人間の熟議を助けるのではなく、かえって人間の判断を追い越し、民主主義の土台そのものを掘り崩してしまうのではないか。そうした懸念は、加速主義への私たちの違和感とも、きれいにつながっている。

 だから私は、加速主義は止められないかもしれないが、コントロールは必要だと思う。ブレーキではない。ハンドルである。速く走るなら、なおさら、どこへ向かうのかを考えなければならない。

 その点で、d/accにはおもしろさがある。ただ速くするのではなく、守る技術、分散する技術、壊れにくい技術を重視する。これは、きわめて常識的な発想である。華やかではない。しかし、社会に本当に必要なのは、たいていこちらだ。攻める技術より、持ちこたえる技術。伸びる技術より、崩れない技術。そういう視点は、これからますます大切になるだろう。

 一方で、プルラリティはさらに魅力的である。違いを消すのではなく、違いを残したまま協働する。多数決で押し切るのでもなく、単純な分断に落ちるのでもない。実に美しい構想だと思う。
ただし、ここには一つ大きな壁がある。人はそこまで政治にエネルギーを注げない、という現実である。

 日々の暮らしは忙しい。仕事がある。家事がある。育児がある。介護がある。疲れて帰ってきて、そこから複雑な制度設計や政治的対話に十分な認知資源を割ける人は、そう多くはない。プルラリティは理想としては高い。だが、その理想を支えるには、市民にかなりの知的体力と感情的余裕を求める。そこに、私は少し無理を感じる。 Plurality は、違いを残したまま協働できる制度や技術を構想する点で魅力的ですが、その実装には高い参加コストが伴う、という読みは十分成り立ちます。

 そして、SFプロトタイピングである。未来を物語として描き、その物語から現在を逆照射する。これはこれで、非常におもしろい方法だ。だが、いまや生成AIの時代である。未来シナリオは、いくらでも作れる。明るい未来も、暗い未来も、数分で何通りも出せる。そうなると、これから重要になるのは、未来を「作る力」そのものではない。どの未来を選び、どの未来を退けるかを見極める力である。

 つまり、未来学の本質は変わりつつある。未来を予測することではない。未来を大量生産することでもない。
未来を読むこと。未来を選ぶこと。未来に対して、倫理的な判断を下すこと。そこに、これからの知性が問われるのだと思う。ハラリの議論を借りれば、問題は「情報が多いか少ないか」ではなく、どんなネットワークがどんな判断を自動化し、誰がその力を握るのか、ということになる。

 技術はますます速くなるだろう。その流れは、たぶん止まらない。だからこそ必要なのは、「もっと速く」と叫ぶことだけでも、「危ないから止まれ」と言うことだけでもない。
 速さに耐えうる人間の知性を、どう育てるか。
そこに、いちばん大きな課題がある。
未来の問題は、技術の問題である前に、人間の問題なのである。

2026年2月

歴史の「檻」を壊す勇気――『万物の黎明』とアドラー心理学    2月12日

デヴィッド・グレーバーとデヴィッド・ウェングロウの共著『万物の黎明(The Dawn of Everything)』は、これまでの人類史を「自由と実験の記録」として鮮やかに描き直す、知の革命とも呼べる一冊です。一方、アルフレッド・アドラーが創始した個人心理学(アドラー心理学)は、人間を「運命の犠牲者ではなく、自らの人生の創造者である」と捉えます。

 一見、マクロな考古学とミクロな深層心理学という異なる領域にある両者ですが、その根底には驚くほど共通したメッセージが流れています。それは、「私たちは、今の社会のあり方を、いつでも選び直せる」という、強烈なまでの自己決定性への信頼です。

1. 歴史における「目的論」:農耕は不可避の罠ではなかった

 従来の歴史観は、農耕が始まり、人口が増えたから格差や国家が生まれたという「原因論(因果決定論)」に支配されてきました。私たちは「文明が進歩するためには、自由を犠牲にして管理されるのは仕方のないことだ」という物語を、いわば人類共通のトラウマとして背負わされてきたのです。

 しかし、本書はこの常識を根底から覆します。アドラーが「過去のトラウマが現在を決めるのではない。人はある目的のために過去を利用するのだ」と説いたように、グレーバーらは「環境が社会の形を決めたのではない。人々は自分たちの生き方の目的のために環境を選択してきた」と主張します。

 古代の人々は、農耕の技術を知りながら、自由を失うことを嫌ってあえて定住を拒んだり、あるいは冬と夏で社会構造をダイナミックに使い分けたりしていました。彼らは自らの理想とする生き方という「目的」のために、技術や社会形態を選択していた「活動家」だったのです。

2. コンディアロンクの批評:支配を必要としない「理性」

 本書の中で最もスリリングなのは、17世紀後半の北米先住民の指導者、コンディアロンクのエピソードです。彼は、フランス社会の「不平等」「法による強制」「金銭への執着」を、驚くほど論理的に批判しました。

 アドラーは、人間が健全な精神を持つためには、他者を敵ではなく仲間と見なす「共同体感覚」が不可欠だと説きました。コンディアロンクは、フランス人が法や刑罰がなければ秩序を保てないことを見て、「あなたがたは理性よりも、誰かに支配されることを選んでいる」と喝破しました。

 彼ら先住民の社会では、命令ではなく「議論」と「説得」が社会を動かしていました。これはまさにアドラーが理想とした「縦の関係(支配・従属)」を排した「横の関係」の具現化です。グレーバーは、私たちが誇る近代の「自由・平等」という啓蒙思想自体が、実はコンディアロンクのような先住民によるヨーロッパ文明批判を吸収して生まれたものだった、という衝撃的な仮説を提示しています。

3. 「課題の分離」と3つの自由

 本書で語られる「移動する自由」「命令を拒否する自由」「社会を組み替える自由」は、アドラーの言う「課題の分離」を社会規模で実践する知恵でした。

 アドラーは、自分の課題と他者の課題を分離し、他人の期待を満たすために生きることを否定しました。しかし現代社会では、「負債」という概念が、他者の人生(課題)を支配する最強の道具となっています。誰かに借金を負わせ、その返済のために人生の時間を売り払わせることは、アドラー心理学的に言えば「不自由の極致」です。

 古代の人々は、負債や支配が耐えがたくなれば、そこから離脱(移動)することで、自らの人生を自分に取り戻していました。彼らにとって、命令を拒絶し、別の場所で新しい社会を試すことは、自分の人生を誰にも明け渡さないという「勇気ある課題の分離」だったのです。

4. テオティワカンにみる「共同体感覚」の極致

 メキシコの古代都市テオティワカンは、ある時期にピラミッドの建設(王の権威の象徴)を止め、数万人を収容する高品質な「公営住宅」の建設へと舵を切りました。そこには極端に豪華な家も、極端に粗末な家もありませんでした。

 これは、社会の目的を「支配者の誇示」から「全住民のケア」へと、人々の意志で組み替えた壮大な実験です。アドラーが言う「他者貢献」が、都市計画という形をとって結実した姿と言えるでしょう。「大規模な社会であっても、管理や独裁に頼らず、平等を維持することは可能である」。この歴史的事実は、現代の私たちに「勇気」を与えてくれます。

5. 結び:未来を描き直す「知的な遊び」

 アドラーは「自分自身の人生を描くのは自分である」と断言しました。グレーバーたちは本書を通じて、「人類は自分たちの歴史を描くペンを、一度も手放したことはない」と語りかけます。

 『万物の黎明』を読み終えたとき、私たちは気づかされます。私たちが抱いている「社会は変えられない」という無力感は、アドラーが指摘した「人生の嘘」に他ならないことを。私たちは過去の犠牲者ではなく、明日からの社会をどうデザインするかを決定できる、知的な「遊び」の精神を持った創造者なのです。

 歴史の袋小路から抜け出すために必要なのは、新しい技術でも、全能のリーダーでもありません。かつての人類がそうしたように、目の前の不当な命令を拒み、別のあり方を仲間と語り合い、新しいルールを試してみる。その「小さな実験」を肯定する勇気こそが、私たちの文明を再び夜明けへと導くはずです。

2026年1月

文化がヒトを進化させた 人類の繁栄と<文化-遺伝子革命>  1月5日

――私たちは「賢い個人」ではなく、「文化に乗った存在」である

 19世紀、北極圏を目指したイギリスのフランクリン探検隊は、全員が遭難死しました。この事実を聞くと、つい「判断が甘かったのでは」「知識が足りなかったのでは」と考えがちです。しかし、彼らが滅びた理由は「頭が悪かったから」ではありません。同じ極限環境で生き抜いてきたイヌイットは、なぜ生存できたのか。それは、彼らがその場その場で天才的なひらめきを発揮したからではありません。先祖代々、何百年、何千年とかけて蓄積された膨大なノウハウ――すなわち「文化」を持っていたからです。

 ジョセフ・ヘンリックは、本書でこの点を容赦なく突きつけます。実は、様々な実験データから見るとヒトという動物の「裸の知能」は、チンパンジーとそれほど大差がない。それでも私たちが圧倒的に賢く見えるのは、文化という集合知を脳にインストールして生きているからにすぎない、と。

 ここで重要になるのが、「社会的学習」という概念です。ヒトは、「なぜそうするのか」を完全に理解していなくても、うまくいっている人を丸ごと真似する能力を持っています。理屈よりも先に模倣がある。これが、ヒトの進化を加速させてきた原動力でした。

 そして本書の中でも、最もエキサイティングなのが次の主張です。
「文化が環境を変え、その環境が遺伝子を進化させた」
通常は、「遺伝子が脳を作り、脳が文化を生み出した」と考えます。しかしヘンリックは、その流れを大胆に反転させます。文化が先にあり、その文化に適応する形で、私たちの遺伝子や身体が変わっていったというのです。

 この視点に立つと、「集団脳」という概念が一気に腑に落ちます。イノベーションを生むのは、天才の脳ではありません。集団の規模と、相互につながる密度。どれだけ多くの人が、どれだけ頻繁に知識をやり取りできるか。それこそが、文明の推進力なのです。

 考えてみれば、私自身が本当に理解していることなど、驚くほど限られています。食料を一から作ることもできない。車がなぜ動くのかも、スマートフォンの中身も、ほとんど説明できません。それでも私は、当たり前の顔で日常を生きています。

 なぜ可能なのか。
それは、私は「巨人の肩に乗っている」のではなく、数えきれないほどの小人たちが積み上げてきた文化の山の上に、そっと立たせてもらっているからです。この比喩ほど、本書の核心を言い当てたものはないでしょう。

 ヘンリックの結論は明快です。ヒトとは、生物学的存在であると同時に、文化なしでは生きられない「文化的種(Cultural Species)」である。私たちの心理も、生理も、解剖学的特徴さえも、文化への適応として形作られてきた。

 「自分で考えろ」「自立しろ」という言葉がもてはやされる時代だからこそ、本書は重要です。私たちは、孤立した賢い個人ではない。学び合い、真似し合い、つながることで初めて賢くなる存在なのだ。

 この一冊は、私たちの人間観を確実に書き換えてくれます。