院長ブログ 2026

2026年2月

歴史の「檻」を壊す勇気――『万物の黎明』とアドラー心理学    2月12日

デヴィッド・グレーバーとデヴィッド・ウェングロウの共著『万物の黎明(The Dawn of Everything)』は、これまでの人類史を「自由と実験の記録」として鮮やかに描き直す、知の革命とも呼べる一冊です。一方、アルフレッド・アドラーが創始した個人心理学(アドラー心理学)は、人間を「運命の犠牲者ではなく、自らの人生の創造者である」と捉えます。

 一見、マクロな考古学とミクロな深層心理学という異なる領域にある両者ですが、その根底には驚くほど共通したメッセージが流れています。それは、「私たちは、今の社会のあり方を、いつでも選び直せる」という、強烈なまでの自己決定性への信頼です。

1. 歴史における「目的論」:農耕は不可避の罠ではなかった

 従来の歴史観は、農耕が始まり、人口が増えたから格差や国家が生まれたという「原因論(因果決定論)」に支配されてきました。私たちは「文明が進歩するためには、自由を犠牲にして管理されるのは仕方のないことだ」という物語を、いわば人類共通のトラウマとして背負わされてきたのです。

 しかし、本書はこの常識を根底から覆します。アドラーが「過去のトラウマが現在を決めるのではない。人はある目的のために過去を利用するのだ」と説いたように、グレーバーらは「環境が社会の形を決めたのではない。人々は自分たちの生き方の目的のために環境を選択してきた」と主張します。

 古代の人々は、農耕の技術を知りながら、自由を失うことを嫌ってあえて定住を拒んだり、あるいは冬と夏で社会構造をダイナミックに使い分けたりしていました。彼らは自らの理想とする生き方という「目的」のために、技術や社会形態を選択していた「活動家」だったのです。

2. コンディアロンクの批評:支配を必要としない「理性」

 本書の中で最もスリリングなのは、17世紀後半の北米先住民の指導者、コンディアロンクのエピソードです。彼は、フランス社会の「不平等」「法による強制」「金銭への執着」を、驚くほど論理的に批判しました。

 アドラーは、人間が健全な精神を持つためには、他者を敵ではなく仲間と見なす「共同体感覚」が不可欠だと説きました。コンディアロンクは、フランス人が法や刑罰がなければ秩序を保てないことを見て、「あなたがたは理性よりも、誰かに支配されることを選んでいる」と喝破しました。

 彼ら先住民の社会では、命令ではなく「議論」と「説得」が社会を動かしていました。これはまさにアドラーが理想とした「縦の関係(支配・従属)」を排した「横の関係」の具現化です。グレーバーは、私たちが誇る近代の「自由・平等」という啓蒙思想自体が、実はコンディアロンクのような先住民によるヨーロッパ文明批判を吸収して生まれたものだった、という衝撃的な仮説を提示しています。

3. 「課題の分離」と3つの自由

 本書で語られる「移動する自由」「命令を拒否する自由」「社会を組み替える自由」は、アドラーの言う「課題の分離」を社会規模で実践する知恵でした。

 アドラーは、自分の課題と他者の課題を分離し、他人の期待を満たすために生きることを否定しました。しかし現代社会では、「負債」という概念が、他者の人生(課題)を支配する最強の道具となっています。誰かに借金を負わせ、その返済のために人生の時間を売り払わせることは、アドラー心理学的に言えば「不自由の極致」です。

 古代の人々は、負債や支配が耐えがたくなれば、そこから離脱(移動)することで、自らの人生を自分に取り戻していました。彼らにとって、命令を拒絶し、別の場所で新しい社会を試すことは、自分の人生を誰にも明け渡さないという「勇気ある課題の分離」だったのです。

4. テオティワカンにみる「共同体感覚」の極致

 メキシコの古代都市テオティワカンは、ある時期にピラミッドの建設(王の権威の象徴)を止め、数万人を収容する高品質な「公営住宅」の建設へと舵を切りました。そこには極端に豪華な家も、極端に粗末な家もありませんでした。

 これは、社会の目的を「支配者の誇示」から「全住民のケア」へと、人々の意志で組み替えた壮大な実験です。アドラーが言う「他者貢献」が、都市計画という形をとって結実した姿と言えるでしょう。「大規模な社会であっても、管理や独裁に頼らず、平等を維持することは可能である」。この歴史的事実は、現代の私たちに「勇気」を与えてくれます。

5. 結び:未来を描き直す「知的な遊び」

 アドラーは「自分自身の人生を描くのは自分である」と断言しました。グレーバーたちは本書を通じて、「人類は自分たちの歴史を描くペンを、一度も手放したことはない」と語りかけます。

 『万物の黎明』を読み終えたとき、私たちは気づかされます。私たちが抱いている「社会は変えられない」という無力感は、アドラーが指摘した「人生の嘘」に他ならないことを。私たちは過去の犠牲者ではなく、明日からの社会をどうデザインするかを決定できる、知的な「遊び」の精神を持った創造者なのです。

 歴史の袋小路から抜け出すために必要なのは、新しい技術でも、全能のリーダーでもありません。かつての人類がそうしたように、目の前の不当な命令を拒み、別のあり方を仲間と語り合い、新しいルールを試してみる。その「小さな実験」を肯定する勇気こそが、私たちの文明を再び夜明けへと導くはずです。

2026年1月

文化がヒトを進化させた 人類の繁栄と<文化-遺伝子革命>  1月5日

――私たちは「賢い個人」ではなく、「文化に乗った存在」である

 19世紀、北極圏を目指したイギリスのフランクリン探検隊は、全員が遭難死しました。この事実を聞くと、つい「判断が甘かったのでは」「知識が足りなかったのでは」と考えがちです。しかし、彼らが滅びた理由は「頭が悪かったから」ではありません。同じ極限環境で生き抜いてきたイヌイットは、なぜ生存できたのか。それは、彼らがその場その場で天才的なひらめきを発揮したからではありません。先祖代々、何百年、何千年とかけて蓄積された膨大なノウハウ――すなわち「文化」を持っていたからです。

 ジョセフ・ヘンリックは、本書でこの点を容赦なく突きつけます。実は、様々な実験データから見るとヒトという動物の「裸の知能」は、チンパンジーとそれほど大差がない。それでも私たちが圧倒的に賢く見えるのは、文化という集合知を脳にインストールして生きているからにすぎない、と。

 ここで重要になるのが、「社会的学習」という概念です。ヒトは、「なぜそうするのか」を完全に理解していなくても、うまくいっている人を丸ごと真似する能力を持っています。理屈よりも先に模倣がある。これが、ヒトの進化を加速させてきた原動力でした。

 そして本書の中でも、最もエキサイティングなのが次の主張です。
「文化が環境を変え、その環境が遺伝子を進化させた」
通常は、「遺伝子が脳を作り、脳が文化を生み出した」と考えます。しかしヘンリックは、その流れを大胆に反転させます。文化が先にあり、その文化に適応する形で、私たちの遺伝子や身体が変わっていったというのです。

 この視点に立つと、「集団脳」という概念が一気に腑に落ちます。イノベーションを生むのは、天才の脳ではありません。集団の規模と、相互につながる密度。どれだけ多くの人が、どれだけ頻繁に知識をやり取りできるか。それこそが、文明の推進力なのです。

 考えてみれば、私自身が本当に理解していることなど、驚くほど限られています。食料を一から作ることもできない。車がなぜ動くのかも、スマートフォンの中身も、ほとんど説明できません。それでも私は、当たり前の顔で日常を生きています。

 なぜ可能なのか。
それは、私は「巨人の肩に乗っている」のではなく、数えきれないほどの小人たちが積み上げてきた文化の山の上に、そっと立たせてもらっているからです。この比喩ほど、本書の核心を言い当てたものはないでしょう。

 ヘンリックの結論は明快です。ヒトとは、生物学的存在であると同時に、文化なしでは生きられない「文化的種(Cultural Species)」である。私たちの心理も、生理も、解剖学的特徴さえも、文化への適応として形作られてきた。

 「自分で考えろ」「自立しろ」という言葉がもてはやされる時代だからこそ、本書は重要です。私たちは、孤立した賢い個人ではない。学び合い、真似し合い、つながることで初めて賢くなる存在なのだ。

 この一冊は、私たちの人間観を確実に書き換えてくれます。