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ウォルター・アイザックソンの『イーロン・マスク(上・下)』(文藝春秋 2023)を、私はAudibleで聴きながらじっくり25時間かけて味わった。耳から入る読書は、頭の中でその人物を立体的に浮かび上がらせてくれる。イーロン・マスクという人物が、どれほど常識外れで、どれほど突き抜けているかを、私は今回あらためて知ることになった。
マスクという男は、想像以上に「変」だ。もちろん良い意味で。奇人、変人、天才、暴君、救世主。そんな相反する言葉が次々と浮かんでくる。彼は、電気自動車のトップメーカー・テスラの創業者であり、宇宙開発の最前線にいるスペースXの司令塔。脳とコンピューターを直結させるNeuralinkの開発、AI分野でChatGPTに挑むGrokの創出、さらにはヒューマノイドロボット「オプティマス」の開発まで、ありとあらゆる未来技術に手を出している。
ここまでくると、ただの起業家ではない。もはや“人類の未来”そのものに取り憑かれているような男だ。
驚くべきは、彼の仕事ぶりだけではない。突然「悪魔モード」に切り替わり、側近たちを恐怖に陥れる。あるいは「修羅場モード」となって、自ら先頭に立ち、不眠不休で社員たちと働き続ける。旧Twitter(現X)を買収した際には、全社員の8割を一気に解雇。やることが、いちいち常軌を逸している。
だがその狂気の裏には、並外れた痛みと孤独があった。彼は自らアスペルガー症候群だと語っているが、それだけではない。父親からの虐待、家庭内の暴力。そうした過去の影が、彼の内面に深く残っているようだ。そして、父と同じように躁うつの気質を抱えている可能性もあるという。感情の振れ幅が激しく、破壊と創造の両方を同時に抱え込んでいる。
では彼は、何のために働いているのか?
私は最初、彼は莫大な富を追い求めるタイプの人間かと思っていた。しかし、この本を通してそれが誤解であると気づいた。彼は人類の未来を、本気で案じているのだ。人口減少による人類の滅亡を恐れ、11人もの子どもを持ったという話は有名だが、そこには彼なりの強い信念がある。人類を「惑星間種族」として存続させなければならない。そのためには火星移住を急がなければならない――この焦りが、彼のすべての行動を突き動かしている。
彼が若い頃に夢中になったのは、SF小説『銀河ヒッチハイク・ガイド』。それが今、現実を変えるエネルギーになっているというのも面白い。空想が現実を駆動する力になっているのだ。
マスクには、「本気でないやつとは仕事をしない」という哲学がある。本気でない部下は、容赦なく切る。その厳しさゆえに、周囲の人間は心をすり減らす。だから私は、マスクのような人が人類に必要だとは思っているが、絶対に一緒に仕事はしたくない。近くにいると消耗するに違いない。
けれど、子どもたちのことは本当に愛しているらしい。彼にとって家族もまた「人類という種の存続」の延長線上にあるのかもしれない。子どもたちを通じて、彼は自分の理想を少しでも残そうとしているのだろう。
この伝記を書いたウォルター・アイザックソンという作家もまた注目すべき存在だ。彼はアインシュタイン、スティーブ・ジョブズ、レオナルド・ダ・ヴィンチといった天才たちの評伝を書き続けてきた。そして今回はマスク。彼らに共通するのは、社会の「当たり前」を壊す力である。アイザックソンは、2年間マスクのそばに張り付き、日々の怒声も混乱も、そして天才的な閃きもすべて記録していった。だからこそ、読者はマスクの真の姿に触れることができる。
マスクという人物をどう評価すべきか。好きになれるかといえば、なかなか難しい。だが、彼のような人物がいることで、世界は変わっていく。その事実だけは疑いようがない。
マスクのように「狂気」と「天才」が隣り合わせに存在する人間をどう見るか――それは、我々がどんな未来を選びたいか、という問いでもあるのかもしれない。
先日、児童精神科医である吉川徹先生の講演を拝聴する機会がありました。テーマは「発達障害とゲーム・ネット・スマホ デジタル機器との付き合い方を考える」。また、その内容をより深く理解したいと思い、先生のご著書『ゲーム・ネットの世界から離れられない子どもたち』(合同出版、2021年)も併せて読みました。
この講演と書籍を通じて、私が感じたことは非常に明快です。現代の子どもたちにとって、ICT(情報通信技術)の進歩は、生活に欠かせない要素となっており、その影響は避けて通ることができないという現実です。吉川先生は、ご自身が「ゲーム好き」であり、今なおゲームを楽しんでいる立場から、この問題について語られています。その誠実な姿勢が、多くの保護者や教育関係者にとって、大きな説得力を持つことは間違いありません。
吉川先生がまず強調されるのは、「時代は後ろには戻らない」ということです。ICTのない世界に戻ることは、もはや不可能です。子どもたちは、インターネットやゲーム、スマートフォンが当たり前に存在する社会を生きています。私たち大人がその現実をいくら批判しようと、それによって時代が巻き戻されることは決してありません。であればこそ、前に進むしかないのです。
重要なのは、この時代において「どのように付き合うか」という視点を持つことです。子どもたちがICTとどう関わり、どのように利用するのか。その具体的な「術」を、私たち大人が学び、伝えていくことが求められています。
ここで注目したいのが、「ルールや約束は、子どもが自分の意思で守るものではなく、大人が守らせるものだ」という吉川先生の指摘です。これは、一見、当たり前のことのようでありながら、実は多くの家庭で見過ごされているポイントではないでしょうか。
特にゲームやスマートフォンの使用において、子どもが「自分でやめられない」という現実は、大人自身がよく理解しておくべきことです。大人ですら、つい「もう少しだけ」とゲームを続けたり、スマホを手放せなくなったりする経験はあるはずです。ましてや、自己コントロールの力がまだ発達途中にある子どもたちにとって、それは容易なことではありません。
そこで大切なのは、終わりやすい仕組みを大人が整えることです。たとえば、「次に遊べる時間の保証を与える」「予定通りに終わったら小さなご褒美を用意する」といった工夫が挙げられます。こうした仕掛けがあることで、子どもは安心して「終わり」に向かうことができます。
よく耳にする「ゲームは宿題の後に」というルールですが、吉川先生はこれについて再考を促しています。むしろ、「ゲームは早い時間帯に」「遊びたい気持ちが高まっている時間にサッと遊ぶ」ことで、その後の学習や睡眠に良い影響を与える場合もあると指摘されています。
夜遅い時間帯にゲームをすると、脳が興奮状態になり、睡眠の質が下がることは多くの研究でも明らかになっています。そうであれば、「ゲームは夜ではなく日中に」「遊んだ後は気持ちを切り替えて宿題に取り組む」というサイクルを作るほうが、生活リズム全体を整えやすいのです。
もう一つの重要な視点は、「ゲーム本体は保護者の所有物である」と明確にすることです。クリスマスや誕生日にゲーム機本体を子どもにプレゼントするのではなく、ゲームソフトのみにとどめる。あくまでゲーム機本体は親が管理し、「貸し出す」形をとることで、ルールの運用がしやすくなります。
そして、そのためには保護者自身がゲームの楽しさを理解し、実際に遊ぶことも大切です。大人がゲームを楽しむ姿を見せることで、子どもは「大人もゲームの仲間である」と感じ、対話のチャンスが生まれます。
吉川先生は、次の3つは子どもに感じさせないよう注意すべきだと語っています。
大人はネットやゲームに興味がない、あるいは嫌っている
ネットやゲームの話題は避けるべきであり、隠さねばならない
ネットやゲームのことを大人に聞いても助けにならない
これらのメッセージは、子どもに「大人は理解者ではない」という印象を与えかねません。むしろ、大人が「安心して相談できる存在」になっていることが、ICT時代を生きる子どもたちには欠かせないのです。
また、最も重要なことは、「ネットやゲーム以外にも、楽しいこと、やりがいのあることが世の中にはたくさん存在する」という実感を、子ども自身に持ってもらうことです。そのためには、実際の体験を重ねることが必要です。アウトドア、スポーツ、読書、ものづくり…分野は問いません。大人も一緒になって取り組み、喜びを共有することが、子どもにとってかけがえのない経験となるでしょう。
最後に、発達障害のある子どもたち――とりわけ自閉スペクトラム症(ASD)や注意欠如・多動症(ADHD)の子どもたちにとって、ゲームやネットは時に「得意分野」となりうることを忘れてはなりません。明確なルール、即時的なフィードバック、達成感といった特徴は、彼らにとって安心して力を発揮できる環境となることが多いのです。
だからこそ、ICTとの関わりを「禁止」するのではなく、「どう付き合うか」を早い段階から教えていくことが大切です。そのためには、大人自身がICTとの向き合い方を学び続ける姿勢が求められています。
ICTは、もはや私たちの生活に不可欠な存在となりました。その環境で子どもたちが健やかに育つためには、大人がまず学び、模範となることが何より重要です。ICT時代を生きる私たち大人が、「楽しみ方」も「ルール」も率先して示すことで、子どもたちは安心して前に進んでいけるのだと、吉川先生の言葉は教えてくれます。
人間はなぜ、こんなにも寛容でありながら残酷な戦争を繰り返してしまうのか。リチャード・ランガムの『善と悪のパラドックス』を手に取ったのは、「人間の家畜化」というテーマに惹かれたからです。一見、家畜化という言葉は物騒に聞こえますが、読み進めるうちに、私たち人類の歴史を問い直す大きなキーワードだと気づかされました。
ランガム氏は、私たちの攻撃性を「反応的攻撃性」と「能動的攻撃性」に分けて考察しています。反応的攻撃性は、瞬間的に起こる衝動的な暴力。一方、能動的攻撃性は、計画的で目的をもった攻撃行動だといいます。私たち人類は「自己家畜化」のプロセスによって、この反応的攻撃性をある程度抑え込むことに成功してきた。しかし能動的攻撃性は残り続け、社会性や協調性を形成するためのエネルギーにもなっている。まさに、寛容さと暴力性が同居する私たちの姿を示唆する内容でした。
興味深いのは、このプロセスをチンパンジーとボノボの比較で説明している点です。チンパンジーは極めて攻撃的で、ボノボは非常に平和的。その差は、かつての生息環境の変化が大きく関わっていたとされます。そして人間は、よりボノボに近い方向に進化してきたともいわれる。しかし決定的に違うのは、私たちが能動的攻撃性を使って「反応的攻撃性の強い個体を集団で排除してきた」という事実です。このとき、殺すという暴力を行使しながらも、社会の安定を図っていった――ここに人間の歴史の暗い側面が垣間見えるのです。
また、自己家畜化は神経堤細胞(ニューロンのもとになる細胞)の遊走の変化から説明できるという指摘も、医師として大変興味深く感じました。ベリャーエフの法則という、キツネの家畜化実験で知られる動物行動学の知見がここで登場します。生物学的な進化の観点と、人間の文化・社会が相互に影響を与え合い、私たちの行動を形成しているのだということがよくわかります。
では、なぜ戦争はなくならないのか。ランガム氏によれば、能動的攻撃性は社会性をつくるために欠かせない原動力でもあるからです。私たちは高度な協力体制を築ける一方、それを脅かす存在に対しては残忍な手を使うことを厭わない。その歴史的プロセスの延長線上に、現代の国際紛争が横たわっているのかもしれません。そして著者は、この議論が現代社会における死刑制度の正当化にはつながらない、と断言しています。いかに過去において集団が個人を抹殺することで統制を保ってきたとしても、それを今に適用する理由にはならないというわけです。
人間の深層に潜む「善と悪」を考える上で、本書はとても刺激的でした。反応的な暴力を手なずけ、能動的な協力関係を育んできた私たち人類。その光と影を見つめ直すことで、新しい「人間理解」の扉が開かれるのではないかと思います。
昨年のM-1グランプリは本当に面白かったですね。バッテリーズの「ベタ」で「アホ」な漫才は何度見ても笑ってしまいますし、真空ジェシカの独特な世界観はこれまでで最高の出来だったと思います。とはいえ、一番驚かされたのは2年連続でトップバッターとして出場し、史上初の連覇を成し遂げた令和ロマンの圧巻のステージ。特に2本目の“タイムマシン”ネタは、構成もテンポも素晴らしく、何度でも見返したくなるクオリティでした。
そんな令和ロマンのくるまが本を書いたと知り、思わず手に取ってしまったのが『漫才過剰考察』(辰巳出版 2024)です。M-1をどう盛り上げるか、時代の流れを踏まえてどんな漫才をすべきか――その“過剰”なまでの考察に圧倒されました。
特に興味深かったのは「地域による漫才の違い」についての分析。漫才発祥の地とも言える「西」(関西)は大阪弁のスピード感とツッコミのリード感が強い“しゃべくり漫才”に最適。一方の「東」(東京中心)は、標準語だとテンポはやや抑えめですが、その分ボケのインパクトが強くなるため、ボケ主導になるという視点には思わず納得しました。
さらに「南」(九州)は、ボケがやりたい放題に見えて、どこか宴会ノリの空気感がある(代表例として博多華丸・大吉)。「北」(東北・北海道・北陸)は、ボケとツッコミの仲の良さが際立つ二人の世界観(代表例としてサンドウィッチマン)とのこと。残念ながら、東海地方と私の出身である中国四国地方には“これ”といった漫才がないようで、ちょっと寂しくもありました。
石田さんによれば、漫才の原点は「偶然の立ち話」。変なことを言う人に対して、常識的な立場から問いただすツッコミと観客が一体となり、いわば「被害者友の会」のような空気感が生まれると漫才は最高に楽しくなるというのです。
また、「漫才コント」と「コント漫才」の定義もわかりやすく整理されていました。
さらに、コントと漫才の垣根を取り払ったのがM-1で活躍した「和牛」だったという指摘には、改めて彼らの革新性を感じました。
それから印象に残ったのは、NON STYLEがネタ合わせを「本気でやらない」というエピソード。ネタを詰め込みすぎるとツッコミの井上さんが飽きてしまうため、あえて大まかな流れだけ共有するそうです。そこに石田さんがボケ方を変え続け、「いかに井上さんを飽きさせずに楽しませるか」「いかに井上さんを困らせるか」を意識しているとのこと。絶妙なバランスの上に彼らの笑いが成り立っているんですね。
くるまと石田教授、それぞれの本を読んで感じたのは、漫才の歴史と現在のスタイル、客層や舞台の違い(賞レース vs. 寄席)までを的確に分析しているところ。それぞれの考え方や視点の幅広さには本当に感銘を受けました。どちらの本も、漫才好きなら楽しめること間違いなしです。
昨年のM-1グランプリを振り返りながら、改めて漫才というエンタメの奥深さを実感した一年でした。来年、再来年と、さらに新しいスタイルやコンビが出てくるのかと思うと楽しみで仕方ありません。この二冊を読むと、きっと漫才の見え方が変わるはずです。